『なぜ、こんなにも世知辛い世の中なのか?』
ちなみに世知辛いとは以下の通りです。
世渡りがむずかしい。暮らしにくい。(引用:コトバンク)
少なくともこの記事を訪れた方は、人生にそのわだかまりを心に抱えてた人だと思います。
かく言う僕もその1人。
そこで今回は、
その要因を生みだしている、社会と個人の摩擦および、その際に生じる”空気”について考えてみました。
本記事は、『価値観の不一致』の内容を前提にしてますので悪しからず。
社会と僕の関係
食の好みの例でいえば、Aを”社会”、Bを”僕”とするならば、社会と僕は③あるいあ⑥に該当します。お互い趣向が合わないのに一緒にいるわけです。そして僕が自分の価値観を捻じ曲げてAに合わせている状態。
ここで意味するのは、
Aが『右に行きたい』、といえば、僕は有無を言わさず右に行かなければならないということ。
しかし、逆は起きない。
つまり、Aが僕に合わせること。なぜか?答えは”数の力”です。
正確には、数の力により生み出される空気だといえる。
数の力
この”数の力”とは、100人対1人で1人の人間が勝てるわけないだろ?的な話。先の例同様に、食の好みで説明すると、コミュニティXでは、”朝ごはんは和食=常識”、コミュニティYでは、”朝ごはんは洋食=常識”という価値観が蔓延していたとします。コミュニティXにいた登場人物Aが、コミュニティYに移行するとどうなるか。Aは多数派から少数派へと状況が変わってしまいました。
この状況でAが、「私は朝食派です」と言ったらどうなるだろう?
まずコミュニティYの内部事情を検討してみる。
①コミュニティYの人間は、全員が心の底から朝ごはんは洋食がいいと思ってる。
②コミュニティYの人間は、本当は朝ごはんに和食を食べたいと思ってる
③一部の人間は朝ごはんに和食を食べたいと思っており、数のバランスは右記の通り。洋食派>和食派。
④一部の人間は朝ごはんに和食を食べたいと思っており、数のバランスは右記の通り。洋食派<和食派。
⑤一部の人間は朝ごはんに和食を食べたいと思っており、数のバランスは右記の通り。洋食派=和食派。
最悪なのは①の場合。
こんな状況で、Aが主張をしようものなら”変人”、”笑いもの”、”調和を乱す悪”などのレッテルを貼られてしまう。つまり、コミュニティXからすればいい迷惑なわけです。
逆にAが自身の価値観を開示したとてして、喜ばれるのは②の場合。なぜなら、コミュニティXの人間は心うちでは”朝ごはんに和食を食べたい”と思っているのに、なぜか誰も言い出せずに”洋食”を食べているからです。
にもかかわらず、誰もそのことを言いださせずに困っているのは、少数派に回るのが怖いから。
迫害されたら?
問題ある人だと思われたら?
変わった人だと思われたら?
それが怖くて言い出せないようにも感じられる。それは言い換えれば”個性”であるはずなのに、社会では”人と違うことを悪とする風潮があり、そこに生きる人たちは、その違いを異様に恐れている”ように感じる。
そういった”空気”がなくなれば、もっと生きやすい社会になると思うんですけどね。
コメント