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プロフィール

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わざわざこんなページを訪れたあなたは相当な物好きだと思う。
僕も大概だが、あなたも負けていない。

その証拠に、僕はあなたのことを多少なりとも理解している。

あなたがこのページを訪れた動機を。

それは

「お前、一体だれやねん?」

ってことだろう?

もしくは、

「お前、twitterやらblogやらで偉そうな事言ってるけど一体だれやねん?」

だろう?
そりゃそうだ

だが、安心してほしい。
自覚はあるから。

時を戻そう(ペコパ風)

ここでのメッセージはこうです。
このイントロダクションをあなたが、読んでもし何かしらの感情が湧いたのなら読み進めて欲しいし、そうでないなら、時間の無駄なのでここで離脱した方がいいよという話。
僕があなたに提供できる価値はきっと何もないから。

ざっくり、僕がやってること

ということで本題に入りたいのですが、
この記事は自己紹介なのだけれど、基本的僕が何をしてる人間で、どういう考えに基づいて行動してるのかって話をします。

 

僕がやってることは、

・精神症状のある人にカウンセリングしたり知能検査すること
・発達障害の子どもにソーシャルスキルや勉強を教えること
・健常の子どもに英語教えること

です。

で、それは僕が「できること」という視点からの話で、僕が「求めていること」という視点からいうと、上記のような人たちの抱える「生きづらさ」とそれに対して「どう向きあっているのか、もしくはいないのか」ということです
そしてそれは僕自身の「生きづらさ」を克服するヒントになっているからだと考えてます。

 

で、そのモチベーション

で、それが僕の信念的な話に繋がっていく。
そしてそれは僕がどういう人間になりたいかという話になるのだけど、

「人から敬意を払われる人間でありたいし、敬意を払う人間でありたいと思うから」

だといえます。

そしてそのためには「洞察力」ってのが重要だと思ってるんだけど、
心理士として社会に価値を与えるということが、そこに近く道だとも考えてます。

 

では、なぜ洞察力を磨きたいのか?

 

と考えると、「人付き合いに役立つから」という答えになりましょうか。
因みに、洞察力を単純化すると、「人の内面を知ること」だと言えるのですが、「人の内面を知る」ことで、よりよい相手との関わり方ができるからでしょう。

詰まるところ、「人付き合いが苦手」というのが、僕にとっての「生きづらさ」というところに集約されるのかと。

 

で、「洞察力があると、より良い人との関わり方がわかる」という事例は、過去を遡ればたくさんあるのだけど、記憶に新しい出来事を取り上げることします。

このエントリー内でもすでに述べたとおり、僕は健常の子供に英語を教えていたりもするのだけど、年長の子にアルファベットを教えていた時の話です。

僕はその子にアルファベットの大文字と小文字を書いてもらったのだけど、その子は大文字を書き終えたところで、お茶をのみだしたり、つまらないと言いだしたり、小文字を書くことに進もうとしないということがありました。

 

前任の先生からは、

「読み書きは普通にできる」

と聞いているし、僕自身の評価としてもそれは一致していた。
ただ、なぜか小文字になると書こうとしないのだ。
(まぁ、今思えば、その子は基本的に騒がしいし、机に向かわせることも一苦労たったので、僕の意識が「小文字を書けない」という事を捉えてすらいなかった・・・)

 

やろうとしないので、物や遊びでつりながらだましだましやらせていたのだけど、ある日、書き取りのテストをすることになった。
そこには、当然ながらアルファベットの大文字と小文字AからZまでが含まれる。

なんだかんだ、その子は文句いいながらやるイメージがあって、テストの意味もわかってるようなので、大丈夫だろうと僕は思っていた。

 

しかし、まさか、a,b,c,d,e…を書いたところでまた手が止まってしまった。

 

え?

 

と思った僕はその子の表情をチラッとみたら、
ポロポロと涙をながしていた。
(ちなみに、これは嘘泣き)

それをみてようやく僕は気づいた。
その子は「小文字を書かないのではなく、書けないのだ」ということに。

つまり、お茶を飲んだり、会話したり、動き回ったりは「勉強がつまらない」からではなくて(それもあったかもしれないが)、「小文字が書けないことを隠す」ためだったということになる

 

まぁ
子供にだってプライドはある。

 

なので、それ以降はスモールステップを導入してやってるんだけど、学力は普通にある子なので、現在はメキメキとやってくれている。

 

内面を理解した上で、どういう対応を取るかというのは役割やその他諸々の問題もあるので、一概には言えないけれど、今回は「英語を教える」という目的の下で動いていたので、そういう選択をすることにした。

 

これが例えば、児童発達支援だとしたら、「わからない」というマンド(要求言語)を獲得させたりすることが優先されるかもしれない。
あるいは、その子のパーソナリティ(プライド)を尊重するなら、「わらからない」よりも、「ヒントちょうだい」のような表現の方が望ましいかもしれない。

 

いずれにせよ、

敬意を払われる人間であるためには、自分がまず相手に敬意を払うことが重要だと思うわけで人間関係って往々にしてそういうものだろうとも思ってる。
そういう前提があって、敬意を払うということは相手を理解すること、内面を知ることで、そういった人を見抜く力ってのが「洞察力」という言葉に集約されるんだと思ってるんだよなと。

ただ、必ずしも自分が敬意を払えば相手からの敬意がリターンとして得られるのかというとそうではないというのが人間関係の億劫な所なんだけどね。

けれども、「敬意を払われない理由」というのを更にっこんで洞察できる精神力が持てるようになると、そこから相手を知り、自分を知ることに繋がり、引いては、短期的ないし長期的に有効な、言わば「神の一手」の様なライフハックが繰り出されるのではないかと僕は信じている。

で、結論に戻ってくるわけですが
畢竟するに、僕は僕自身の生きやすさを追求するために今の仕事をしているということになる。

だから、別に困ってる人を助けたいなんて崇高な気持ちを持ってるわけでもないし、社会一般に「困ってるとされる人達」にも別に同情はしてない。
自分だったらそんな感情を向けてくる人間は鬱陶しいと思うから。

ただ、僕自身、過去にいじめられたり、パワハラ受けたり、家庭内暴力振るわれたり「生きづらい」とか「もう死にたい」と思うことは多々あったので、

「今、現在進行系で困っていて、助けが欲しい人達」

に対しては、できることがあればするし、それが仕事だし、他人を知ることは自分を知ることでもあるので。

それがwin-winの関係なのでは?

というような考え方をする人間です僕は。

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