久々に、「点と点が線になる感覚」を味わったので
言語化したいという衝動に駆られ、その気持ちの赴くままに書く。
もうなんかSEOなんざ気にせず書く。
僕が「社会構成主義」に惹かれた理由を
社会構成主義とは
そもそも、社会構成主義ってなんぞ?
という方も少なくないと思うので、シンプルに言うと。
「あなたの目の前にあるのは、1つの事実と複数の解釈だ」
ということになりましょう
どうですか?
わかりませんよね?
そうだと思ったので、然るべきところからその定義を引っぱってきました。
私達が自明なものとしてとらえてきた現実は、実のところ、言葉を介して私達が意味づけ、共通理解としてきたものにすぎないという理解を出発点に据えている。社会構成主義に基づけば、唯一絶対の真実は存在せず、これまで客観的事実だと捉えられてきたことは、ある人々のメガネを通して切り取った「その人にとっての真実」にすぎない。どちらが正しいかの議論は意味を持たず、それぞれの眼鏡を自覚しながら、互いの意見に耳を傾け合うことが大切となる。
(引用:家族心理学 家族システムの発達と臨床的援助,p6より)
はい。
これが社会構成主義です。
なんかピンとくるものありますせんか?
そう。
よくいますよね。
「揺るぎない事実や正論を突きつけられても受け入れられない人」
「正解のわからない事柄について、自分の意見が正しいと信じこむ人」
「宗教やら占いを信じる人」
なんか、愚痴のようになってしまったけれど、多かれ少なかれそれは誰しもあるものです。
それは、僕自身もそうですし、あなたもそうではないでしょうか?
社会構成主義と言語の関係
で、ようやくこの記事の核心に入りたいと思うのですが、僕はこの「社会構成主義」に前々から惹かれつつあったわけです。
その理由は「その人についての真実」というのは、「言語」に反映されると考えられるからです。
その結びつきを導いてくれたきっかけが
「愛を持って手放す」
という表現なんですよね。
愛を持って手放すとは?
愛を持って手放すとは、なにかしらの(アルコールやギャンブル)依存症の患者を持つ『家族』に向けて投げかけられる言葉なのだそうです。
依存症の家族には「世話を焼きすぎない」とか「面倒を見すぎない」という態度が求められるそうで、家族が被害者にならないためにも、患者の回復のためにも必要なことらしいです。
そして、重要なのがここから。
どうやら、「愛を持って手放す」とは「Tough Love」という言葉を日本語訳したものらしいのです。
いやしかし、僕はこれを見た瞬間、圧倒的な違和感に僕のスカウターが反応しました。
なぜか?
違うのです。明らかに。
何が?
「英語と日本語の文構造」が。
似て非なるのです。
いうなれば、「木村」と「本村」くらい違うのです。
愛を持って手放す=Toguh Love が異なると考える理由
では、どのように両者は異なるのでしょうか?
順を追って説明します。
まず、Tough Loveから分解していきましょう。
Love とは、ご存知「愛」という意味なのですが、「Tough」はというと
〔物が〕丈夫な、頑丈な
〔食べ物が〕固い、かみ切れない
〔人が肉体的に〕頑健な、屈強な
〔人が精神的に〕たくましい、辛苦に耐えられる、不屈の
〔人が〕断固たる、毅然とした
〔人が〕乱暴な、けんかっ早い
〔規則などが〕厳格な、無情な
〔仕事などが〕つらい、きつい
〔状況などが〕厳しい
引用:英辞郎より
こんな意味があります。
なので、文脈的に「厳しい」とか「断固たる」あたりが適切ではないでしょうか。
だとすると、「厳しい愛」ということになりますよね。
で、「Tough Love」の日本語訳である、「愛を持って手放す」
という表現と比べてみましょう。
「厳しい愛」
「愛を持って手放す」
・
・
・
・
・
どうですか?
全然違いますよね?
なぜかって?
「厳しい愛」は、「愛」という言葉が「厳しい」という言葉によって修飾された形になっています。
つまり、「愛」というのは、「名詞」であって、名詞を修飾できるのは、「形容詞」です。
ということは、「厳しい」というのは、「形容詞」ということになりますよね?
つまり、「厳しい愛」は「名詞」なんです。
一方、「愛を持って手放す」は、「手放す」という行為が、「愛を持って」という言葉によって修飾された形になっています。
つまり、「手放す」というのは、「動詞」であって、動詞を修飾できるのは、「副詞」です。
ということは、「愛を持って」というのは、「副詞」ということになりますよね?
つまり、「愛を持って手放す」ってのは、「動詞」なんです!
ですので、
「厳しい愛」
と
「愛を持って手放す」
を比較するということは、
「名詞」と「動詞」を比較していることに他なりません。
どうでしょう?
「全然ちげーじゃねーか!」
ってなりません?
話を社会構成主義に戻してみる
こんな感じで考えると
「Tough Love = 愛を持って手放す」
絶対これ違うこと言ってるのでは?
と疑いの心も生まれましょう。
で、そんな疑いを持ちながら、社会構成主義の定義を見直してみると、
「言葉を介して私達が意味づけ、共通理解としてきたものにすぎない」
という文言がなんか心に響くわけです。
つまり、
①表現は違うけど、共通理解として同じことを言ってることにしてるのか
あるいは、
②やっぱり違うことを言ってる
かのどちらかということになりますよね。
まあ、どっちが正解かなんてことはこの記事ではどうでもよく、
とにかく、ここでのメッセージは
「その人にとっての真実」を探るためには「言語」にその手がかりが反映される
ということです。
「言語」を通して反映される「その人にとっての真実」
で、僕は前々から、このトピックには大変興味があったわけで、そこに「名前」がつけられたという意味でなんかスッキリしました。
これは、僕自身のブログやツイートを振り返ることでその気づきを明確にすることができました。
例えば、
こんなツイートを僕は過去にしています。
日本って「ただ早く生まれた」というだけの理由で序列をつけすぎ。その人の”能力”に対して敬意を払うならわかるのだけど、”年齢”を気にしすぎる。アメリカでは、”兄弟”を示す単語は”brother”の一語だけど、日本では”弟”と”兄”がある。その国の言葉に価値観って表れるものですよ。ってさっき本で読んだ
— ryo/心理系ブロガー (@Ryo_lifehack) January 28, 2018
こういうこと言うと
「big brother」という言葉があるのでは?
といった反論があるかもしれませんが、残念ながらそれは表面的です。
なぜかって?
この記事を読んでいただいた方なら、もうおわかりですよね?
bigは「大きい」という「形容詞」であり、「brother」を修飾して、2語で成立しています。
一方、「お兄ちゃん」は、1語で成立した「名詞」です。
つまり、「同じ人」に焦点化した言葉でも、そこに対する価値の違いが反映されてると考えられます。
日本語では、「兄」や「弟」という1語で機能する名詞があるのに対し、
英語では、「big」や「little」をつけてなければ、それを表現することができません。
その役割を明確にすべく「専属の名詞」を用意しているということは、
英語に比べると「兄と弟を区別」することに重点をおいていることが考えられます。
以上は一例ですが、
他にも、「共感と同感の違い」を言語的な観点から捉えたり
「甘え」という言葉が、英語にはないという視点にも興味を惹かれてるわけです。
で、何が言いたいかというと、こういう言語間の違い、というのは、
まさしく「社会構成主義」に則っていると考えられるわけです。
この気づきを日本語にも反映させる
で、僕の社会構成主義への入り口は、「英語と日本語」だったわけですが、
こういう考え方を持ってると、日本語だけでも、相手の「語る言葉」への意識の向け方にも変化が起きます。
例えば、主語。
夫婦に自分のパートナーの話を語らせたりすると、「彼は」、「旦那は」と人によってその呼称は様々です。
ただ、パートナーのことを「彼は」と語る人は「旦那は」と語る人に比べ、なんかよそよそしい感じがありませんか?
ここにその時の「声のトーン」や「表情」、「文脈」などの情報が加われば、その疑念はさらに確信のあるものに変わるでしょう。
ただ、そこまでの練度が必要あるとは思いませんが
「社会構成主義」的な考えを持っているだけでも、
「他者理解」には役立つと思います。
引いては、それが、あなたの良好な人間関係構築にも繋がると思いますので、
ぜひその一助になれば幸いです。
と、強かにしめさせていただく。
以上。
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