僕は、人とうまく関わるためのコツとか気づきを発信してるわけですが、そんな中でも”観察と洞察”って大事だなと思うわけです。だいぶ前から気づいてはいたけど、よく考えず、身につかず今に至る。
観察と洞察の定義
まず思うのは、観察と洞察って言葉がそもそもよくわからない。そういう記事を書いてる人もいるけどやっぱりよく分からない。ということで、言葉の意味を調べてみることからはじまる。
観察とは、”対象の実態を知るために注意深く見ること。その様子を見て、その変化を記録すること。どれだけその変化を見つけられるかが重要
とある。
一方、”洞察”はと言えば、物事の本質を見抜く力があることだと言えよう。
洞察は、”鋭い観察力で物事を見通すこと。見抜くこと。 物事を深く鋭く観察する能力。物事を観察して、その本質や、奥底にあるものを見抜くこと。見通すこと。人間の心理を洞察する”
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どうやら、洞察力を身につけるためには観察力が必要な模様。観察力をよく知りたい方は⬇︎⬇︎⬇︎こちら。
また、”洞察力を”ということは、”なぜ観察するのか?”と聞かれたら”洞察をするため”ということが言える。つまり、観察について理解するためにも、その先にある”洞察”から逆算するというのが一つ切り口かもしれない。
洞察とは
そこで、洞察についての考察を進めたいのだが、洞察の定義で気になったのは、”物事”と”本質”という言葉だ。これは僕の主観だが、観察や洞察といった言葉には”察”という漢字が入っているため、続けて思い浮かぶのは”察する”という言葉なのだが、”察する”と表現すると、人に対して使うものだというイメージが強い。しかし、定義上に”物事”とあるように、観察や洞察という言葉は人だけに用いられるわけではない。また、続いてきになるのが、”本質”という言葉だが、これもまた定義を調べてみることにした。
本質とは、”物事の本来の性質や姿。それなしにはその物が存在し得ない性質・要素”とある。
なるほど。少し理解が深まった気がする。とはいえ、まだ”気がする”程度なので、”具体例”を取り上げて考えてみる。
目的と時系列から本質を考える
本質という言葉の定義に色々目を通していたら、下記の様な文章があったのでこれを切り口にしてみた。
”例えばハサミ。ハサミがハサミであるために最低限必要な要素とはなんであろうか?『刃』という人がいるかもしれない。けれど世の中には刃のないハサミも存在する。『ものを切る能力』という人がいるかもしれない。けれど世の中には観賞用のハサミもある。ハサミ一つを取ってみても本質を見極めるのは難しい。”
この文章をみる前、僕はハサミの本質は『ものを切る能力』であると思っていた。しかし、”観賞用のハサミ”という新たな情報が出現したことによって”ものを切る能力が本質である”という僕の考えは見事にぼやかされた。これは、いかに僕が物事を断片的かつ側面的にしか物事を捉えられてないかという教訓である。なので、ハサミという概念を要素に分解するために、その切り口として”目的”と”時系列”という視点から捉え直す必要がある。
ハサミの”目的”
まずは、目的について考えてみる。”普通のハサミ”の目的は、”ものを切る事”だろう。一方で、”観賞用のハサミ”の目的は”観る事”だろう。観賞用なんだから。つまり、この2つのタイプのハサミは、用途が異なるわけだ。
ハサミが発明されるまでの”時系列”
次に、”順序”という視点からハサミの違いを考えてみる。どちらが先行して世に存在したのかということ。これは消去法になるが、観賞用が先行することなどありえるだろうか?否定できないが、可能性は低い。なぜなら、人間の本能に逆らうことになるからだ。どういうことか?ここで一度、話をハサミの用途に戻したいのだが、仮にハサミの本質が”鑑賞する事”だとしたら、それは別に生きるために必要がない。ただの”娯楽”でしかない。別に困りはしない。一方、”切る能力”はどうだろう。これを失ったら生活に大きな影響が出る。紙を切る。食材を切る。髪の毛を切るなどといったあらゆる行為が非効率になる。そこに娯楽的要素は皆無であり、”ものを切るという”というのは生きるために必要な要素だという捉え方もできる。故に、生活必需品であるという考えに基づけば、”切る能力”が時系列としては、先行していると考えられる。
”切る”という要素から考える
”切る能力”が生きる上で必要だったのはそうだと思う。しかし、仮に「これがハサミの本質です」と言われても、まぁ腑に落ちない。なぜなら、”ものを切る能力”を備えたものは他にも存在する。例えば、カッター、包丁などがそれ。更に大昔は、鋭利な石だとか、木とかそういうものだったのだろう。では、ハサミが人間の生活にとって都合の良い点はなんだったのかというと、”効率”ではないだろうか。石とか木で食材を切ろうと思ったらどれだけ時間を要するだろうか。30分かかっていたものを5分に短縮したものがハサミだ。
なので、”ハサミ”をより的確に表現するのであれば、”効率的にものを切る能力”ということになる。しかし、この表現ではカッターや包丁との区別がつかない。効率的にするために何が加わったのかわからないからだ。そこで、表現をより適切にするために、ハサミにあって、他にない要素を抽出する必要がある。ハサミ固有の要素を抜き出すのだ。このような場面では、5W1Hの表を作って比較すると新たな気づきを得る事ができる。
ここから言えるのは、ハサミはその他の刃物に比べ”適用範囲が広い”ということだ。髪を切る専用、裁縫専用など各分野専用のハサミが複数あり用途ごとに分かれている。そこで、”なぜハサミは適用範囲が広いのか?”を考えてみる。その理由は、”刃が2本ある”からであり、それは”はさむ事ができるから”という可能性が高い。挟むことによって”固定”を行えるのがハサミだ。そのため”切るという行為の効率が上がった”と考えられる。
つまり、ハサミがハサミであるために最低限必要な能力は、”ものを挟む能力”なのではないか。そうすれば、”刃のないハサミ”についても説明がつく。例えば、”洗濯バサミ”なんかも、刃物としての能力はないが、”ハサミ”と呼ばれている。これは、やはり、”ものを挟む能力”があるからであって、用途は洗濯物を挟むことだからだ。と、ようやくハサミの本質を結論付けられるかと思いきやまだ疑問が残る。”挟める能力”がハサミの本質だとしたら。挟める能力を”箸”はなぜハサミと呼ばないのかという疑問だ。
”挟む”という要素から考える
挟むという視点から考えると、思いつくのは、洗濯バサミいがいに、食事に使われる”箸”がある。
大きな違いとしては、ハサミと洗濯バサミについては”ものを挟む能力”以外にもう一つ能力が備わっていることだ。例えば、ハサミには”ものを切る能力”、洗濯バサミには、”挟む力を維持する能力”がある。一方で、箸については、”ものを挟む能力”だけしか備わっていない。とは言っても、箸には”挟む、抑える、あえる、さす”とか複数の機能があるわけだが、それはどちらかといえば”使い手に依存する能力”だと言える。言い換えるなら、使い手によって”自由度が高い”ということでもある。使い手が未熟だと、箸の多様な機能が発揮されず、子供であれば、”刺す”行為しかできなかったりする。逆に、ハサミは”使い手に非依存的”で”ものを挟むことに特化しているし、限定されている”とも言える。使い方に多様性がないため、子供と大人によって大きな差はなくなる。そして、箸の機能が使い手に依存しているのは、”2本が孤立しているため”だろう。では、2本の箸が接続していたらそれは”ハサミ”と呼べるのではないだろうか?これに対する僕の回答は”Yes”だ。
というのも、”接続している2本の箸”に近しい物として、”トング”や”ピンセットがある。そしてトングには、”火ばさみ”という呼び名があるそうだ。つまり、2本がそれぞれ独立している箸は、使い道が多様であったが、1つに接合されることで、その機能性を失い、”挟む能力に限定された”。だから、”ハサミ”と呼ばれるのではないか。ハサミの本質はやはり”ものを挟み固定する能力”だと考えられる。だから、ピンセットを”処置バサミ”と呼んでもいいのだと僕は考える。なぜなら”挟める”から。
で、ハサミの本質ってなんなの?
それでは当初の議論に話を戻したい。”ハサミの本質とは何か?”それは、”物を挟む機能”ということは、”観賞用のハサミ”はハサミではないということだ。”ハサミという名前の固形物だ”というのが結論。しかし、ここで注意しなければいけないのが、”物を切るハサミ”(以下、刃サミ)の本質はこの限りではない。本質とは、”そのものとして欠くことができない、最も大事な根本の性質・要素”であった。”刃サミ”にこの定義を当てはめてみると、”物を挟む要素”があっただけでは、僕たちがハサミと聞いてまず思い浮かべる”刃サミ”でなはない。なぜなら、”物を切るハサミとして要素を欠いている”からだ。つまり、”物を切るハサミ=物を挟み固定する要素+物を切る要素”だと言える。
気づき
冒頭にも書いたが、今回のエントリーは、”洞察”について理解を深めることが目的だった。そして、今回明確になったのは
①洞察=観察+考察
このエントリーを書く上で、ネットから情報を集め、僕自身の記憶をたどることもあったのだが、それは何のためかというと、考える材料を集めるためだ。なぜなら、人間は”0”から考えるということはできない。ではどうすればいいのかというと、”0を1にする作業”が必要になる。それが情報収集であり、自身の体験を探る作業でもある。その部分に該当するのが、”観察”だ。人と関わる際にも同様のことが言える。次に、観察で集めた材料を組み立てるのが考察。正にこのエントリーで辿ったプロセスがそれ。
②本質となる要素は1つとは限らない
”刃ハサミ”について述べた通り、本質は1つではない。”本質”と聞くと”唯一無二”という印象が強かったのだが、そういうイメージ先行の言葉こそ改めて考えることで本質に迫ることができる。”思い込みを捨てよ”というのはこういうことかもしれない。ただ、何を本質とするかを考えるためには、何の本質を見極めたいかということに依存する。なぜなら、”刃ハサミ”の本質であれば、先の2要素が最低限必要な要素ではあるが、それらの要素の本質が何かというのは別な話だからだ。
畢竟するに、本質をすぐに捉える人というのは、以上のようなプロセスを圧倒的に早くこなせる人だということになる。
コメント
大学の先生は一味違いますね。材料物理数学再武装で有名な久保田博士の話。ストライベックから国富論まで言及できるKPI競合モデルはとても面白かった。