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【要約と書評】甘えの構造 / 土居健郎

精神科医である土居健郎先生の”甘えの構造”を読んだので、その内容と考察を記事にしておこうと思う。本書を手にしたきっかけは、過去記事の”甘えと日本人”で記した通りなので割愛するが、一言で述べると、”甘えってなんなの?”という漠然とした好奇心がはじまりだった。

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”甘え”とは?

 という事で、手始めに甘えとは何か?その定義を明確にしておきたい。定義を明確にするのは、つまり、基準を作るということであり、その基準に則って、他者が言う”甘え”を吟味することが可能となるからだ。

 そして、僕が本書を読んで理解した”甘えの定義”は以下の通りだ。

 甘えとは、二者関係から生じるやりとりの事をさし、自己と他者は別の存在であるという事実を認識した上で、一体化を目指す感情のことである。

 土居先生は、甘えのルーツが、乳児と母親の二者関係にあると述べているため、母子関係をベースにして、その様相を可視化してみると下図の様になると思われる。

甘えの構造

 ここまでが、土居先生の言う甘えの概要であるが、僕が本書を読んで気になった点を掬い上げると共に、これまた僕が日常生活の中で拾い集めた、”他者が述べる甘え”と”甘えと思われる事例”について照らし合わせをすることにしたい。

”甘え”に隠された高度なコミュニケーション

 本書に目を通している最中、僕の意識が絶えず捉えていた思いがあるのだが、それは”甘え”という感情状態が成立する背景には、高度なコミュニケーション技術が秘められていると言う事だ。高度なコミュニケーション技術と言っても、それが求められるのは”甘えさせる側”なのだが、具体的には、”共感力”や”察する力”、あとは、”圧倒的な受容力”の事を指している。

と言うのも、土居先生は甘えを説明するにあたり次の様なことを述べている。

 一般に、美というのは、対象の与える印象が感覚に快い場合であって、その体験おいては、対象の美を享受する者が対象と1つになっている事であるが、これは甘えの体験と似通うところがある。というのは、甘えは度々述べてきた様に相手との一体感を求める事だからである。もっともその場合、相手がこちらの意図を理解し、それを受け入れてくれる事が絶対必要であるからである

(出典元: 甘えの構造  p124)

 

 すなわち、”相手の意図を理解し”という部分が”察する力”であり、”それを受け入れる”というのが”受容力”にあたる。では、”共感力”はどこで必要になるのか?という話になるが、それは次の箇所に依拠している。

 甘えの心理は、人間存在に本来つきものの分離の事実を否定し、分離の痛みを止揚しようとすることであると定義することができるのである

(出典元: 甘えの構造 p124)

 少し繋がりがわかりづらいかもしれないが、”分離の痛みを止揚する”という行為に必要な技術が”共感力”であると僕は捉えている。その理由として、土居先生は”分類の痛みの止揚”を、”渾然”とか、”主客未分”、”自他不二”、あるいは、”無差別的”と言う言葉に置き換えているのだが、これらが意味するのは、いずれも”自己と他者の区別を失くす”ということだからだ。すなわち、この”自己と他者を区別している境界線をぼやかしていく”ということが、共感なわけだが、共感については別記事に書いている為、リンク先を参照して欲しい。

※渾然・・・すべてがとけ合って区別がないさま。

※主客未分・・・主体と客体に分かれていないこと。それを区別しない状態

※自他不二・・・仏教の考え方から見ると自身と他人には区別などなく、自身を救うことと他人を救うことは同じことであるという仏教の言葉。

※止揚・・・低い次元で矛盾対立する二つの概念や事物を、いっそう高次の段階に高めて、新しい調和と秩序のもとに統一すること

甘えの検証

 以上を踏まえ、ここから先は、この枠組みに沿って、僕が日常生活で見聞きした”甘え”(?)と思われる事例を照合していくことにする。

カフェにいたおばちゃんの会話

 1つ目の事例は、僕がタリーズで作業をしていた時に、隣の席に座っていたおばちゃん達の会話である。簡単に状況説明をすると、おばちゃんの片割れはどうやらジャズ演奏サークルに通っているらしく、そこで定期的に開催されるという発表会が話題の主たるテーマであった。

人前で発表する時って、緊張しないの?すごいわね

緊張するよ、発表を見にくる人達も身内だから余計緊張しちゃって

え?気心が知れた人達の方がやりやすくない?

私は、まるっきり知らない人たちの方がいい。そっちの方が、こんなもんなんだと思って広い心で聞いてくれる気がするから。その人たちに対する甘えなのかな

確かこんな感じの会話な様だったはずなのだが、ここで言う日本人おばちゃんのいう”甘え”は果たして、甘えなのだろうか?

結論を述べると、これはどうやら甘えではなさそうだ。その理由は以下にある。

 以上見てきた様に、同じく内と外と言っても、遠慮が多少とも働く人間関係を内と考えるか、あるいは外と考えるかによって、内容が異なってくる。いま遠慮が働く人間関係を中間体とすると、その内側には遠慮がない身内の世界、その外側には遠慮を働かす必要のない他人の世界が位置することになろう。面白いことは、一番内側の世界と一番外側の世界は、相隔っている様で、それに対する個人の態度が無遠慮であるという点では相通じることである。ただ、同じく無遠慮であると言っても、身内に無遠慮なのは甘えのためであるが、他人に対する無遠慮を甘えの結果であるとは言えない。前者では、甘えていて隔てがないので無遠慮であるのに対し、後者では、隔てはあるが、しかしそれを意識する必要がないので無遠慮なのである。この様に、甘えが濃厚でも、また全く欠如していても、同じ様に人を人とも思わない態度が現れると言うことは注目すべきことである。

(出典元: 甘えの構造 p63)

つまり、個人を取り巻く環境を内・中間・外と言う構造で捉えると、土井氏曰く、おばちゃんの言うの甘えは甘えではなく、ただの無遠慮であるという話になる。

内と外

松永氏の表現する”甘え”

2つ目の事例は、”甘えと日本人”を手に取るきっかけになった松永氏の言葉である。

初っ端から、「監督が望むような演技をするので、それを教えてください」と彼女(吉田洋)が言ってきたので、「は?なに甘えてんだ」って思い腹が立ちました。

そのフレーズだけ上記に取り上げたが、畢竟するに、僕の感覚からすると、それって甘えなの?と首を傾げずにはいられなかったのだ。そこで、土居先生のいう”甘え”に沿って、照らし合わせを行いたいたかったのだが、この事例は”甘え”ではなく、”甘ったれ”ということになる。

これと比較して今日的な「甘やかし」と「甘ったれ」の場合は本人が無自覚であるということは一切あり得ない。大体この場合、二者関係における行為の有無が前提となっていないのだ。有無ではなく、むしろ好意があると思わせたいかもしくは、そう思いたいという意図があって、その結果として相手に「甘える」振りをさせることが「甘やかし」であり、または反対に自ら「甘える」振りをしてみせることが「甘ったれ」なのである。したがってこの場合問題の本質は表面の「甘え」的現象にあるのではなく、それを演出している隠れた意図にあるわけだから、「甘やかし」と「甘ったれ」は本来の「甘え」に似て非なるものと言わねばならない。

(出典元: 甘えの構造 p4-5

 仮にこの事例が「甘ったれ」だとするならば、吉田羊には”好意を思わせる意図”があった事になり、それに対し松永氏が答えていないために、”甘ったれ”が成立すると言える。そして、注目すべきは、この場合、松永氏が彼女の好意を受け入れたとしてもそれは、「甘え」ではなく、「甘やかし」ということになる。

SNSでのバッシング

 最後に1つ、言葉として表現されてはいないが、僕が個人的に「これって”甘え”じゃないのか?」と思った事例を挙げておきたい。

その詳細は、以下のリンクより確認して頂きたいのだが、要約すると、ある一般人が、大阪メトロの車掌が11秒目をつぶっている瞬間を目撃し、それを会社に通報したところ、逆に”クレーマー”としてネット住民かから批判を受けてしまったという事例。

http://tsuisoku.com/archives/54583928.html

 この事例を甘えの枠組みに当てはめて考えてみると、”甘やかし”である。

 というのも、ネット住民に迎合するわけではないが、僕もこの通報者には、”正義感”とか、「この瞬間を目撃して通報した自分、ドヤ?」に近しい気持ちが腹の底にはあった様に感じられる。加えて、この人には、「こんな車掌がいる電車に乗るのなんて危険すぎる」といった被害者意識もあったと感じられるのだが、土居先生は、被害者意識と甘えの関連性について次の様に述べているのだ。

 「甘えるといえば当然その原型は幼児の甘えであるが、この場合は自分の甘えの対象すなわち母親を独占しようとし、母親が他の者に注意を向けることに強い嫉妬を抱く。すなわち他の者は彼の眼に邪魔と映り、彼は邪魔を取り除こうと努めるのである。この様に甘える場合に邪魔が意識されることが多いのは、元来甘えることが満足されるか否かは相手次第であり、甘える者が相手に対し受身的依存的姿勢をとることに関係があると思われる。甘える相手は自分の意のままにならないから、それだけ甘える者は傷つき易く干渉されやすいのである。」

 結局、邪魔意識すなわち被害的心理は甘えの心理と密接な関係があり、日本の社会では甘えの心理が支配的であればこそ、邪魔ということを人々が強く意識する様になったのだということができよう。

(出典元: 甘えの構造 p209

これをイメージ化すると以下の様になる。

 甘えの構造は、冒頭に述べた通りだが、そこに到達するまでのプロセスが描かれている点で異なっている。ここで訴えたいのは、土居先生の言う甘えは、甘える対象(この場合は”母”)がいるからこそ、その注意を奪う自分以外の存在を”邪魔”と認識することに繋がるというものだ。

 一方、この事例をイメージ化すると次の様になる。

 この場合、邪魔ありきで、甘えが成立している様にも考えられる。自分の生活の中にたまたま、”目をつぶってた車掌”が飛び込んできたので、それを”邪魔”とすることで、”甘える対象(会社)”を後から持ってきたのかもしれない。

 あるいは、”甘える対象(会社)”を念頭に置いて、”邪魔(社員の粗)”をもはや探していたのかもしれない。どちらにせよ、顧客優位感が強い日本の社会では、こんな報告が入ったとしたら多くの人が甘んじてその主張を受け入れるのではないだろうか?だからこそ、これは”甘やかし”だということになる。

 だとすれば、この人は、”甘え”に渇望していて、”甘え探し”に躍起になっているとしか思えなくなってくるのだが、皮肉な事に、甘えたくて、排除したはずの邪魔が、バッシングという形で再び自身に降りかかる事になってしまったのだ。そして、この現象は、ネット社会だからこそ成せる技なのだとも思う。

最後に、雑感

 以上、僕が日常で感じた”甘えらしき事象”をピップアップして論を展開してきたが、土居先生自身は、現代の日本社会をネガティブに捉えている節がある。

 以上、現代が奇妙に甘えの充満している時代であることを述べてきたが、このことを言い換えれば、皆子供っぽくなっているということであろう。いや、子供と大人の区別が昔ほど判然としなくなったという方が当たっているのかもしれない・・・・。

 そしてこの大人の様な子供と子供の様な大人に共通するものこそ甘えなのである。

(出典元: 甘えの構造 p268

 

 ”子供っぽい”とは、人を揶揄する際に使われる表現であり、ここに土居先生の考えが反映されている様に思うのだ。ただ、土居先生は次の様に一歩引いた目線からもう一度”甘え社会”について触れているのだが、やはりその思いが拭えないのだろうか、”退行現象”とか、”前提とした上での話である”の様な言い回しにその思いが溢れ出ている。

 要するにすべての差別が棚上げされて、皆一様にこごものごとく甘えているのは、たしかに人類的な退行現象と言わねばならぬが、しかし将来の新しい文化を創造するためには必要なステップであるのかもしれない。個人の場合、創造行為に一種の退行現象が先行するのはよく知られた事実だからである。もっとも、これは人類に未来があると前提した上での話である。

(出典元: 甘えの構造 p272

 ただ、僕自身は、”社会適合”という観点から言えば、大切なことである様に思う。もちろん、甘えっぱなしになるのはよろしくないのだが、自分の立場や役割に応じて、”甘える”ことも、”甘えさせる”ことも必要だと言う意味だ。

 土居先生の言う様に、”甘え”という状態が、渾然状態であるのなら、それが自身の活動範囲を広げていくことにつながるからだ。というのも、ボウルビィの愛着理論では、子供は愛着を持つ人(母)を安全基地とし、外界を探索すると知られているが、この様にして人は自分の境目を外界に溶け込ませていくのだと思うし、無論、”愛着理論”と”甘えの構造”通じるものがある。

 なので、僕が一番伝えたいメッセージとしては、”甘える”ことも”甘えさせる”ことも使い分けるべきだと思うのだが、それを意図的にやってしまうと正確には、”甘ったれ”ないし”甘やかし”を使い分けろという表現が正しい。

これは若干矛盾してる様な気もするが、それらを使い分けることは、言い換えれば、区別することなので、むしろ渾然とした状態である”甘え”とは逆行する行為だと言える。それが、もしかしたら、土居先生のあるべき”大人らしい大人”と”子供らしい子供”のいる社会なのかもしれない、と不覚にも今書きながら思ってしまったし、それを実現するためには、まず、”甘えの構造”を知ることがその第一歩なのだ。

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