【書評】”甘え”と日本人

土居健郎(精神科医)・斎藤孝(明治大学文学部教授)による”甘えと日本人”の書評記事です。

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この本を手にとったきっかけ

”土居健郎氏”と”甘え”の組み合わせは、臨床心理に精通してる者なら誰もが一度は目にしたことがあると用語だと思う。あえて”用語”という表現にしたのは、自発的に踏み込まない限り、あくまでも”知ってる”程度にとどまるからなのだが、そういう僕も、「あぁ、土居健郎ね。甘えでしょ?」と、”知識”と呼ぶのも恥ずかしいカケラを知っている一人にすぎなかった。

ただ、そんな知識が、まあきっかけという意味では役に立ったのだが、あるテレビ番組がきっかけで僕の潜在意識に漂っていた”甘え”とうまく化学反応を引き起こしてくれた。村上春樹原作のハナレイ・ベイという映画の宣伝番組を観ていた時に、”甘え”という言葉が飛び込んできたのだ。この映画監督をつとめる”松永大司”に対し、「吉田羊の第一印象はいかがでしたか?」というインタビューに対する回答を聞いた時のことだった。ちなみに吉田羊は、この映画の主演であり、この質問に、松永氏は次のように答えている。

初っ端から、「監督が望むような演技をするので、それを教えてください」と彼女(吉田洋)が言ってきたので、「は?なに甘えてんだ」って思い腹が立ちました。

多少あいまいな部分はあるが、ニュアンスはこんな感じだったはず。で、本題はここから、なのだが、これを耳にした時、

「え?これって甘えなのか?」

と、僕は疑問に思ったわけである。僕の価値観で言えば、相手のニーズを探り、齟齬を無くすという意味で、むしろ甘えとは対極にある態度ではないのかとすら思ったわけだ。そんなことがきっかけで、僕の好奇心は絶頂を迎え、この本を手にとることに至ったわけだ。

どんな本なのか?

詰まる所、”甘え”とは何かを知るために手に取った本ではあるが、それを目的とするなら、この本はおすすめしない。なぜなら、本書では、土居氏の語る”甘え”と斎藤氏の”身体論”に関する理論を前提の上で、2人が議論を交わしていく構成になっているからだ。故に、そういう人には物足りなさがある。”甘え”発展編というところだろうか。なので、”甘え”とは何か?ということを理解したいのであれば、まずは、「甘えの構造」を読みその上で、本書を読むというのが正しい流れであると推測される。

とはいえ、本書には本書なりのおもしろさがあるし、議論の前にそれぞれ必要最低限の理論説明はあるので、無駄ということでは決してない。ただ、甘えそれ自体よりも、僕が本書から受けとったのは現代人のあらゆる事柄に対する区別性の稀薄さについてだったように思う。

なので、この本を以下のような人に勧められる

・”甘えの構造”を読み、さらに”甘え”についての理解を深めたい人

・上下関係に悩みのある人(特に上の立場にある人)

・子育てに悩む人

・場の整え方を学びたい人

・物事の違いを捉える力を学びたい人

現代人の鈍感さと粗雑な言語

おそらく、僕が本書を読んで最も影響を受けた内容がここに集約されているように思う。

自分の中の”気”というエネルギーの感覚に関してもうちょっと無関心で、「むかつく」という言葉も、疲れたのとエネルギーが余っているのと区別がつかないまま口にしているような状態ですね。あるいは人との関係でも気心が知れるという言葉はありますが、例えば「気を配る」という感覚さえも「気って配るものなんだ」という発見につながる。気を配ろうとすれば自然にそちらに体が向きますよね。その「気を配る」という言葉がないのでそういう感覚が育ちにくい。(p141)

これを僕なりに咀嚼すると、”今時の人は、自分自身の感覚に鈍感で、鈍感な理由はそれらを区別しようとしないからであり、区別できないのは、語彙量が圧倒的に少ないから”ということ。本書ではその具体例として、”気”を取り上げてるが、生活全般についてのことを指していると考えられる。

例えば、”おもしろい”という表現をするにしても、そのおもしろさには種別がある。そのおもしろさが、新たな知識を得ることによって生じた感覚ならば、”興味深い”がより適切だし、あるいは、人の冗談によって生じた感覚ならば、”滑稽な”という表現が適切だと言える。

これは、斎藤氏と土居氏のこのプロセスをたどることへの甘えのなさだと言える。というのも、このプロセスたどる事が圧倒的に面倒だからなのだけれど、何より困難なのは、”意識的かつ繊細に、その瞬間の自分に集中する”ことだ。なぜなら、僕たち人間は、生活する上で、あれこれ先の事を考えたり、何かに妨害されたり、別の誘惑に注意を惹かれる事が多々あるからだ。その意味では、この圧倒的な”自己観察力が本書の議論を成立させる根幹になってると考えられるし、実際、本書では、”区別性”、”分別”、”区切り”、”区別”、”違い”などの言葉が多用されている。

なので、その例を1つだけ取り上げて紹介しておく。

身体論を用いた”区切り”

先ほどの”感覚の区別”と通じる部分があると思うのだが、斎藤氏は”人間関係の秩序”を生み出すために”区切りをつける”事が不可欠であるとし、その詳細を以下のように述べている。

 私たちは教師ですけれども、人間関係を暖かくしようと思って、「そんなに権威的な付き合いをしなくてもいいよ」という空気を出してしまうでしょ。そうすると歯止めがきかなくなってしまうんです。要するに、礼を失するわけです。個人的に最初はいいと思っていて、そのうち礼を完全に失ったのが習慣化してしまうと、もうちゃんとした事が出来なくなる。

故に、斎藤氏は、”身体論”という観点から話を展開しているのだが、このユルユルな場に区切りをつけるために、””を取り入れるのだという。

森田まさのりさんが、連載していた「ROOKIES」という漫画があります。作品中で、不良高校生が立ち直ろうとしている時に、教師と喧嘩を始めてしまいます。ただ、高校生の方は喧嘩だと思っているのに、教師はそれを喧嘩だと思っていません。だから、教師は礼をしてから喧嘩を始め、「ありがとうございました」と終える。そうする事で、ただの喧嘩じゃなくなるんです。最初と最後に礼をする事で、それは喧嘩ではなくて1つの稽古だったと言うことになるんですね。

まさしく、身体論的かつ秀逸で、僕にはこの”礼”という行為が、空気に感情移入をさせるための手段であるように感じられ、どうにも頭を離れなくなってしまった。というのも人間関係には、”おちゃらける場面”と”真剣な場面”をうまく切り替えるべき時があったりするものだ。わかり易い例でいえば、恋愛においては、自分を”良き話し相手”から”気になる相手”へと格上げさせる必要があるが、そのためにはやっぱり空気の入れ替え、すなわち場を整える事が必要で、そういう時に先ほどの”礼”のような身体論的な発想と技能を使いこなせれば、恋愛に限らず僕たちの人間関係に大きく影響を与えてくれるだろう。

まとめ

甘えに関する詳細は、”甘えの構造”の書評を書く予定があるのであえて触れなかったわけだが、いずれにせよ、このような”区別をする”という視点から「健全な甘えとそうでない甘え」とか、「精神病者と健常者」とかその他諸々2人は語ってくわけです。そして、そういう違いを明確に察知するためには、冒頭に述べた”自己観察力”が必要不可欠で、それを的確に表す語彙や表現力が培われてないといけないのだと思うが、それこそが、僕が今回の読書から得た、一番の学びだと言える。

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